戦前や戦中の侍従長や、終戦直後の宮内庁長官ら、昭和天皇の側近を務めた人物の記した日記やメモで歴史をたどる企画。連載第2回は、1937(昭和12)年の日中戦争開戦直後の天皇や周辺の動きを振り返ります。
昭和天皇の侍従長を務めた百武三郎(ひゃくたけさぶろう)の日記が東京大に寄託され、2021年から閲覧可能となった。早稲田大教授の劉傑(りゅうけつ)(62)=近代日本政治外交史=は日記に「船津工作」に関する記述がないか探した。
1937年7月7日、中華民国北平市(現北京市)郊外で日中両軍が衝突した「盧溝橋(ろこうきょう)事件」が起きた。8月初め、日本政府は早期停戦をめざし、蔣介石(しょうかいせき)が率いる国民政府の外交部(外務省)高官と接触。水面下で和平を探った。交渉役として、元外交官の実業家である船津辰一郎を上海に派遣したため「船津工作」と呼ばれている。
劉は中国・北京出身。東京大に留学し、日中戦争期の外交交渉や和平工作について研究した博士論文をもとに、1995年に「日中戦争下の外交」を出版した。「船津工作」については、早期解決を望む昭和天皇の意思が働いたことが、外交官の日記などで明らかになっている。百武日記にも、天皇や宮中関係者の動向が記されているだろうと劉は考えた。
百武日記の37年8月2日に以下の記述があった。
「高松宮(たかまつのみや)殿下参殿あり。両陛下とご対面後、予(百武)をお召しあり。時局につき非常に心配あらせらるる様子にてお話あり。1、今が時局を収拾するも最良の時機なり」
「誠にみごとなるご意見感激に堪えず。委細内府(内大臣)にも伝達しご意見のごとく実現せんことを祈る旨申し上げたり」
天皇の弟である高松宮が、天皇や皇后と面会した後で百武を呼び、「今が時局収拾に最良の時機だ」などと語った。発言内容を百武は箇条書きし、天皇の政務を補佐する内大臣の湯浅倉平(ゆあさくらへい)に詳しく伝えた――などと書かれている。
天皇が事態収拾のための外交交渉を首相の近衛文麿(このえふみまろ)に促していたことは、別の記録でも明らかになっていた。当時外務省東亜局長だった石射猪太郎(いしいいたろう)は37年7月31日の日記に「一昨夜近衛首相お召(めし)になった時、陛下からもうこの辺で外交交渉は出来ぬものかとお言葉ありたる」と書いた。
外務省と陸海軍の当局が協議して「停戦交渉案」や国交関係に関する「国交調整案」をまとめ、船津を上海に派遣することが決まったのは8月3日。百武を介して高松宮の発言が伝えられた翌日だ。劉は「事態の急展開は、昭和天皇ら宮中からの働きかけがあったからにほかならない。日本側にとって停戦交渉案がかなり本気度の高いものだったと読み取れる」とみる。
船津は8月7日に上海に到着し、親交があった国民政府外交部亜州司長(外務省アジア局長に相当)の高宗武と9日から交渉を始めた。ところが直後の13日に上海で「第2次上海事変」と呼ばれる交戦が始まり、工作は頓挫した。
日中両国は全面戦争に突入…